今回は大霊神のご修行は、木の鎮魂の玉を使い、木のご修行ということで行いました。それから沙庭のご修行をさせていただきまして、皆さんで感想のシェアタイムを、今回は非常に長く持ちました。お一人おひとりが発言できるようにということで、沙庭のご修行、大霊神のご修行と、両方に発言された方もいらっしゃいましたが、とにかく多くの感想をいただくこととなりました。改めてほとんど全員の方の感想を聞きますと、私たちとしても非常に学ぶところが多かったな、というような気がしています。皆さまの感想を聞くと、たくさんの皆さまのご修行が、非常に進んでいるというように感じました。
また、3月の末に大霊神祭が行われて、それから大霊神のご修行が始まったわけですが、その神々の階層を、もう一度改めて確認させていただきました。遠津御祖神、そして五行の神々、こちらは神人一体というかたちでお迎えし、それから大霊神のご修行という、その半歩の階を上りまして、それから国津神、天津神というような、その確認をさせていただきました。
これから淡々と、とにかくご修行を続けましょうということで、それを追いかけないことが一番大事だと感じますが、今日の鎮魂もそうだったのですけれども、なにかを感じようとか、捕まえるということではなくて、日々淡々とやっているうちに、その向こう側にあるものが、なにか五感を超えたところで感じるというような、そこがひとつの大きな学びにもなっております。参加された方々が、前回から、そこを非常に理解していただいているという印象がありまして、運営側として、こちらもとても嬉しく思っております。
たくさんの方々が、このご修行を通して、また、新たに、神々のお迎えの仕方をしていただいて、ぜひ、公の国津神、そして天津神の世界へと学びを深めていただきたいなと思っております。(山口)
知・情・意の学びとしての、各概念をいかに確実に掴むかということも含めての、沙庭のご修行がなされたかと思います。
和歌におきましては、いわゆる当時の、たとえば「和論語」も、すでに共有の情報としてお話させていただいておりますが、いわゆる当時の江戸時代、そして明治期にかけての、白川の門人の方々の神観が、どのようなものであるかというところを、現代社会においての現代人の立場として、共に確認させていただく学びでもあるかと思います。
そして、七澤代表のお話において、当時の明治期のあり方として、和歌をもって、日本は本来、神の国であるということを、いかに伝え表現するかというところが、ひとつの手法でもあったということでした。情という言葉においては、情動と情緒という言葉を正確に分けて確認する必要があるというお話も共有されています。
和歌が、科学が現代のようにまだ発展していない、いわゆる科学の知が共有されていない時代の、ひとつの手法でもあったなかで、当時は明治期の、新たな時代を迎える時期においての、宗教運動的な風潮や、ヒューマニズムの思想が生まれてくるというような時代でもあったと言われています。
時代の風潮において、神の世界を捉えようとされてきた時代の方々のご功績を、知・情・意の学びをもって、皆様と共に精緻に確認させていただくことの大事さを、このたびのご修行では感じました。
感情から情緒に進化したところが本当の和歌であり、歌であるということで、現代社会においては、科学の立場、窮理学の立場をもって、知・情・意のあり方を自覚し、情緒という階層を明確に学ばさせていただくことで、和歌として伝承されて来ていることの本義を確認することになるのではと思いました。
そして、金霊神のご修行も同時になされているなかで、両方のご修行が連動して、統合の学びとして、現代社会において共に学ぶ姿勢が確認されるところでなのではないかと感じました。(斉藤)