2021年5月14日のオンライン祝殿講習における七澤代表の講話

皆さん、今日は一日ご苦労さまでございました。ご修行というのは、基本的に、身体的というのか、身体操法であったり、身体作法というか、身体全体で掴もうというかですね。お祓いが言霊が中心であるとすると、お祓いを本来は聞きながらというのか、受けながらですね、身体操法といいますか、そういうことにつながって、ご修行というのがあるし、それを祝殿の講習というふうに、我々はやってきてはいるんですけれども。端的に六種鎮魂というふうな形で掴んでいくというかですね。非常に身体の操法を少なくして掴んでいこうというような、そういうきらいというか、方法というものを取らせていただくことになっているということはいえると思うんですよね。
本来はたくさんのご修行というか、ご修行そのものが行われるんですけれども。主にご修行というものは、身体で掴もうという、そのまま直に掴むというふうな世界をご修行というふうに呼んできたというかですね。ですから、意外とご修行というものの掴み所が、無意識的というか、そういうところにあって、今まで、その部分が、その世界を掴むということにおいては、意外と端的な世界というかですね。知とか、情とか、そういう世界を、あるいは、自分自身が修行したいというふうな、そういうところを飛び越えた無意識的というか、そういう世界の修行というふうなことになりかねないというかですね。
ですから、少しその内容が神秘的、あるいは瞬間に神の世界を、身体の作法の、操法というのか、そういう動きの中で掴むということがあるということは、なかなか神秘的というかですね。あるいは、その世界を見たら、何か受け入れるということの難しさが、神という、あるいは自然というふうなものとの繋がりをつけることはつけるんですけども、それがシャーマニスティックなものというふうに捉えてしまうということを、現代の中では一番気にして、そこを超えてご修行するというところに行かなければいけない難しさがあるのではないのかなと。
そういう神秘主義というか、そのまま神の世界を自分で掴もうというふうな、そういうところになって来るときに、少しゆとりというのか、訳が分からなくなるようなところになりかねないというところがあって、そういうところを超えて、ご修行というようなものを見つめるというかですね。一切の「無」知識層というか、知識というものを超えて何か掴む世界を見つけようという、そういう部分が相当出てくるというかですね。それを現代のたくさんの知というか、そういうところを前提にして学ぶというところも必要なことでですね。なかなかそのあたりの、二重三重にご修行というものは難しいから、それをシステム化して学ぶということがどういうことか、というふうなところが、些かご修行の中では難しい点があって、皆さんにどのように理解していただければ一番いいのかなというかですね。
ですから、ご修行の祓いがありながら、なお、それが掴み所のしっかりとした、そういうご修行になっていくのかなというふうなですね。結構、難しい部分に行き当たるというかですね。普通は、ですから、そういうことについて何にもお教えしないで、ただただ、こうしてですね(外結印を示して)、ご修行を受けるというふうなところもあってもいいのではないのかなというところがあろうかというふうには思います。難しさがあるということですね。ですから、それを神々の世界というか、天津神、国津神、五行、物質としての金霊神の世界、あるいは、太陽とか月というふうな、そういうエネルギーを実感する方法とかですね。現代ともなれば、様々な、そういう表現方法がありまして、風の風霊神とか、水霊神とかというところまで天津神の系譜を辿るということもするんですけども。ただただ、一切、何もなしに、そこに出入りするというふうな方法というものも、あるにはあるわけですね。そういうものが、神秘的なものやシャーマニズムにならないように、注意深くしながら学ぶというところと、一方ではしっかりとシステム化して学ぶというところも、たくさんのそういう経緯を経ていくというふうな難しさがあるということですね。
それがまた階層になっているんだよということで、特に、金霊神というか、すべての原子というか、あるいは素粒子というか、そういうものの持っている働きを、一つひとつ修めていくというところまで、我々は今、落とし込んで、学んでいるというところです。そういう難しさはあろうかと思いますけれどもですね。そういうことも含めて行かなければいけないところが、システム学習の中ではあるということで、皆さんにこの時代に白川のご修行を、何らご修行というものに観念としての、あるいはそういうものを置かないで学び取るというふうな方法も、如実というか、それを掴むということが、一方では出来ないかなというところもあってですね。その難しさが、どうも、この時代に、何も考えなくてもいいよということが前提にはあるけれども、それをそのままやっていくということの問題点というのか、そういうことを確認するというかですね。そういうことが多々出てくるということが、この時代の難しさではないのかと。
これはみんなが、知識というか、知恵というか、そういうものを学び取ってしまったがゆえの、幸か不幸かですね。理由があるということは、どうしようもない部分でですね、行かざるを得ないところがあるんではないのかと。それを武術のように、簡単に通り越していくというような、そういう方法も、方法としては無きにしもあらずですけれども。それだけで行くということは、ちょっと難しいというか、ご修行として掴み取ることは、ちょっと大変なんじゃないのかなというかね。余計なお節介なのかもしれませんけれども。そういう、時代の持っている問題点みたいなものも、しっかりと自覚して、その学びをしなければならないんじゃないのかといふうな難しさがあってですね。皆さんに、これ以上矛盾のないようなところで、毎回毎回ぶつかって、それでもなお、そこをどのように乗り越えていけばいいのかということで、それに階層をつけて学び取ろうという、そういう苦心惨憺というかですね。何とか皆様方に、そういう世界を共に学び取っていただこうということで、いろいろ苦労をかけてしまうわけですけれども。
そういうことが、この祝殿というものの持っている講習というか、ご修行の難しさが、最初からあるんですよということなんですね。そこを、ですから、出来るだけ鎮魂の瞬間、あるいは祓いの瞬間、あるいはひとつの、言霊というものが発動するその瞬間というものを確認しながら、一方では、内容に入っていくというかですね。そのための、それが一つの悟りということになれば、そういう悟りというふうな世界を、どうしても掴もうということになろうかと思いますけれどもですね。そこをみんなでどうしたらそれをより良くできるのかなということが、この時代のご修行する者の難しさであるというかですね。でも、そこを乗り越えていくための学びをしているというかですね。
ですから、その学びをするということは、一番難しい修行、宗教なんかの修行にあるような学び、悟りというふうな、非常に高度な情緒性というか、そういうものを掴もうというような、そういうことが入っているということが、一方では難しさであるというか。そういうことをしようとするとき、やはり、よく作法としてはエポケーというか、一旦、思考停止の状態を、自分自身が意識の中で迎えて、意識というものを引き出すための、そういう作法として、何も考えないというふうなことを、意識下の中でしてみるというようなこともですね。そういう意味の難しさ、そういうことも含めた意識進化というようなところも引き出すというような、そういうことを我々は学んでいくということも、この時代に先駆けとしては、難しいことですね。本来の神の世界というものを、しっかりと掴むために一度、そういう世界を置いてしまうというような、そういう意識変容というか、意識を使うというかね。そういう意識までも使わせていただくということがあるというかですね。こういうことを小難しくいうというのも、ただ優しくご修行を受けていくという方法もあるわけですけれども、その方法が、人として、その意識を迎えるというか、そういう状態にいるということが、なかなか矛盾したり、なかなかそういう状態にかぎらない人の知というものの持っている、その不十分さを乗り越えていくときの方法があったりして、なかなか、そういうことについて、さておいて、というようなわけにはいかないというかね。
ですから、少なくとも、鎮魂にしろ、祓いにしろ、自分の心の状態を、空というか、無というのか、そういう状態を自己の中で実現しつつ、それを働かせていただくというかね。意識は最大限に清らかでありながら、なお、その道をどうしたら迎えられるかというかね。そういう状態を迎えられるかということが、祓い、鎮魂というような状態に、円滑に自己意識を回せるのかなということが、非常に大切なというかね。そのための様々な装置も作って、必要な概念があれば、その概念を装置の中で作ろうということで、ロゴストンということで、今、そういう装置を開発したりしています。今の科学で十分達成できるような、そういう本来は、悟りのような世界で掴む世界を、みんなでもって、実現するというのかね。そういう意識の中に実現するような、そういう技を、みんなでもって作れないかと。それが、一つのロゴストンという世界に繋がっているということもいえるかなと。
だから、難しく神々のそういう世界をいうことは、色々と、重力波とか、最先端の科学の粋(すい)を使って表現したりですね。あるいは、それを静止状態というようなことで、意識の静止した状態を、我々の意識の中に実現していくということも、今、必要なことではないかということで、そういう装置を、歴史の中で紐解くというかですね。それは水晶のような玉というか、振動発信子というか、振動子というようなものを、我々が引き出すための、そういう学びをできないものかということでね。意識を含めた自然の静止状態というかですね、エネルギーというものが止まっている状態を作れないかというところまで、ご修行というものの全容を紐解いていこうということもあってですね。それを科学にしていきたいものだなと。科学としても、それをみんなにお伝えする、あるいは、そのことを通じて、三種の神器の持っている本来の科学を、皆さんに、歴史の中で学んでいけるようなものにしたいということですね。
グラビトン(重力子)というようなものを、我々は、祓いの言霊の中で、そういうものを実現するための言霊子(げんれいし)というものを持って、それが、どこまで科学として、皆さんの前に、それを表現できるかということまでやろうとしているというかですね。所詮、そういう非常に難しいものを、次から次へと、光学的な部分を超えて、真実を明かそうとするというかですね。あるいは電磁波というようなところを超えて、その世界を我々が出そうというような野望といいますか、あるいは、そういう説明知をもたらしていくということも含めた言霊というところですね。その言霊という部分を、皆さんにお出しするということを、今、させていただいているというかですね。それも科学させていただくということがあって、皆さん、非常にそこをしっかりと乗り越えていくための、そういう道を歩むということも決心はしておりますけれども、なかなかそのあたりを皆さま方にすべてお出しするというのは難しい点もあるにはあるのですけれども。
そういうものを含めて、さらにこれから進化させていきたいというかですね。神々の世界を昔風に、ただただ伝えるという方法もありますけれども、これは、やっぱり一生かかってしまうというかですね。それでもいいんだよというふうな考え方もあるとは思いますけれどもね。そこを乗り越えて、少しでも、みんながこの時代に白川という「おみち」を修行して良かったと思えるような、そういう老婆心というのもおかしいのですけれども、そういうものとして、さらに進めるということも大切な要件ではないかと思いながらですね。迷いつつというか、なかなか、そこを乗り越えてやっていくということを前提にして、科学と、そういう白川のおみちをしっかりと結び合わせていこうということを決意させていただいている関係上、ぜひとも、そこは、美しいハーモニーとしての歌でもあるし、祓いでもあるし、心の澄み渡る境地でもあると思います。
そのへんは、この白川をお任せいただいた、伝承をお任せいただいた我々に免じて、そのあたりをしっかりとさらに、皆さんとお作りするということでございまして、決して、独善的にいこうとしているわけではないというかですね。あくまでも、時代の一番進んだ科学を前提として、共に歩みたいということでね。単なる「おみち」をお出しするということだけでは、相すまない状態というかですね。それを、すべての物質を、金霊神として、一つひとつ、ご修行の中に入れて、皆さんと共に進めたいということでございます。難しくいうことを目的としているわけではないというかですね。
そういうこともあって、皆さんに知的好奇心というか、情緒としても、決して粗相はしないように、みんなが学べるようなものとして、さらに工夫を含めてやらせていただくということになります。今、たくさんの人たちが学ぶことができる道は、これしかないのではないかなということで、色々と工夫は必要としていますけれども、そこは、共に納得できるところでやっていただくということは大切かなと思っております。懲りずに、参加していただければ、ありがたいかなと思っております。またよろしくお願いしたいと思います。
ありがとうございました。