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2021年4月16日のオンライン祝殿講習における七澤代表の講話

 みなさま、こんにちは。今日の歌の中にもありますように、季節の歳時記的な歌もありますし、天津神を国津社(くにつやしろ)としてお祀りするという、祭祀に関わる内容もあります。

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■沙庭より抜粋
朝顔の 花咲くことは 替りなき 人の面に 何うつるらん

天津神 国津社て おしへなば 豊あし原の 国ぞおさまる
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 我々も、公(おおやけ)といいますか、国津神の境地は、一体、どういうものか、国津神を身にお迎えして、その上で、公を実践するというような、そういう順序といいますか、そういうものが、今、白川におきましても、学ばさせていただいているところでございます。

 そういう中で、公の顔とか、公の情緒とか、そういうことについて、あるいは、公の生き方みたいなものについての、そういう内容を、このところ、色々、白川学館としては検討しているところであります。その一端を皆様にお話ししたいと思います。まず、公の顔といいますか、これは、人数からいけば、千人以上をお迎えする顔が、公の顔ではないかと。もちろん、公ということになりますと、人が、公になるということは、少なくとも、境地といいますか、千人以上の人をお迎えする、そういうお顔が、普通のお顔ではないだろうということは、およそ察しがつきます。

 中国では、長い歴史の中で、顔相(がんそう)というかですね、そういう捉え方がありまして、台湾の先生が、千人の顔を持つ、そういう存在というのは、その段階において、その人は公ということを標榜するというか、表現するときに、その人の命運というのか、運命というのか、そういうものが変わってくるというかですね。普通の運命で捉える捉え方が変わっていくことを、顔相というような捉え方の中でされています。ですから、千人をお迎えする、そういう公の境地といいますか、そうなると、いよいよその人の運勢といいますか、そういうことではなくて、新しい運勢というか、そういうものを持った顔になっていくということで、なかなかその状態を表現する、あるいは、その人が、どういう境地でいるかということ、どういう運命を持っているかというところまで変わってくるということまでも言われています。

 ですから、そういう千人以上をお迎えするときのお顔というか、そういう境地を自らの中に持たないといけないのではないかということでございます。ですから、公ということを実践するときのお顔は、少なくとも千人をお迎えする、そういう境地で、自己自身がその顔になっているかというところが、公の顔になるというかですね、そういうことになります。

 公の世界というか、今日の歌の中にも、天津神を国津社にお迎えして、そして、技をされるということがありますけれども、実際に天津神をお迎えする、そういうことというのは、公ということになるということは、天津神を迎える神、すなわち国津神としての存在になるということが、公の境地なわけであります。

 これを、白川では天皇陛下が、そういう自らの身体を、国津神と一体となった姿をとりまして、そのうえで、神を、天津神を、そのうえに、またお迎えするという、そういう複雑な技があるわけですね。これが、一つの大きな役割になっていまして、公ということの実体になるというかですね、天津神を、そこに神身一如としてお迎えする段階としての姿というかですね。御国体修行というものをして、そして、神をお迎えするということをするわけですね。そういうはっきりとした、そういう一つの一線があって、その段階を経ないと、天津神をお迎えすることができないということになります。

 その時の境地といいますか、それは、当然我々は神魔人獣というか、神のそういう情緒といいますか、どういう情緒を持っているのかというところについても検討をしていきます。人という存在を、限界の中で、神を迎える人になるということの、その世界はどういう情緒があるのか、あるいは、神をお迎えするときの情緒は、一体、どういう情緒になっているのかということですね。それを、神魔人獣ということで、4つの分類をして、その理解をしようということをさせていただいているわけですね。そういう中での公ということは、少なくとも、神の境地として色々とありますけれども、とりあえずといったらなんですけれども、神の心といいますか、情緒は、そういう世界でなかろうかと。それをはっきりと学んでいくということをさせていただいているわけですね。確かに、人という存在自体が、私(わたくし)という言葉が後々できてきますように、公私というような分け方があり、私ではない、公で生きるということをさせていただくというかですね。

 ですから、我々は、天津神としての宇宙創造神というか、宇宙創造意志に関わる、そういう神の姿をとるということは、どういう境地なのかということを、神身一体ではない、我々は、それは神身一如として、神の世界を、そういう実感するということを通じて、その世界を受けなければいけないというかですね。

 これも50くらいの情緒に分けて、分析しているものがありますので、これも学びたいという皆様方には、その内容をお知らせするということもできるかと思います。それは、また言っていただければ、できるのではないのかと。そういう神の境地といいますか、情緒というものを、色々と探っていくなかで、色々と苦労したことがありますから、そういうことを含めて、皆さんにお話する機会も、また出てくるのではないかと思っています。

 いわゆる、神の境地とは、どういう情緒なのかというところも、はっきりと知る必要がまたあるのではないのかなということになるわけですね。その今度は、神の情緒を、どういうふうに営んでいくことが、一番、皆さんと、新しい時代の持続可能社会を作っていくときの、そういう情緒になって、それが、社会として成り立つか・・・。もちろん、普段からそういう内容を、祝詞を通じて、斎藤祝殿宮司の祝詞を通じて、不思議な言葉が並んでいるなと思われるかもしれませんけれども、公のために尽くさんとする心、あるいは、明き心(あかきこころ)というような言い方である内容が、少なくとも、そういう学びになっているということになるわけですけれども。その祝詞の、「平らけく、安らけく、清らけく、明らけく」というような、平安清明というような、基本的な原理になっていることを我々は学んでいるということを普段させていただいているということになるわけですけれども。

 ですから、普段からの学びである、平安清明とか、そういう境地の世界を我々は一方ではしっかりと、その境地がみんなに広まって、そして、それを前提として、コミュニケーションを人と人、あるいは、人と神の関係の中で図っていくことが、我々の生き様というか、持続可能社会の礎になる情緒であるというふうに思っているわけですね。

 ですから、そういうものが、これからの新しいコミュニティーといいますか、コミュニティーの持っている生き方、あるいは、社会というものの内容ではないのかと。それは、喜というか、喜びというものを、コミュニケーションネットワークにできるような、そういう存在として確認して生きるということができるというかね。社会コミュニケーションネットワークという、そういうことが電子神殿で広がっていったときに、それが、皆さんで確認すべき内容というかですね。真・知・喜とか、真・善・美というような、善や美や喜びというような情緒、感情、あるいは知識を元にした生き方を、我々ができるようになる、その世界を神と呼んでいるなかで、共にやっていこうということを、今、我々はやろうとしているわけですね。

 そういう社会ができないと、人類は、長い時間なく、滅びてしまうような、そういうことになりかねないときに至っているというかですね。それは、今の生命現象というふうにいっていいのかどうか分かりませんけれども、細菌とかウイルスというようなものが持っているところを超えていかなければいけないのにも関わらず、なかなかそこを超えられない悩みを持って、逆に自死に至っている段階を、今、世界で迎えているというかですね。

 白川では、それは、何十年も前から、課題として、そこを乗り越えるためのオルムスとか、フルボ酸という、そういう、消毒液というのか、そういうものを開発して、この時代でも、みんなと仲良く生きられる、そういう方途といいますか、方法や、生き方を、早くからいただいているところにおいては、ありがたいわけですけれども、こんなに悩むとは思わなかったわけですけれども、今、ウイルスも、異形というか、変化しています。もちろん、ここ何年間か、ウイルスの変異あるいは、ウイルスということを自覚するなかで、我々、これからの人類が、どういう生き方をしたらいいのかということを含めて、今、学びの最中でありますけれども。

 そういう問題も含めて、どう生きるかということをしていくということを通じて、次の段階に入っていくということがあろうかと思います。そういうものを含めて、この時代のありようというか、そういうものを考えて、ウイルスによって、一体、我々は何を学んだのかと。そういうことは、しっかりと確認すべき内容であるし、人類が、これからも、より良い持続可能社会を作るための、特に我々も早くから、3.11が起こる前から、電子神殿を作ってきたわけでありますけれども、その内容をもう一度確認しつつ、デジタルの役割を、これから学ぶ、あるいは、それをしっかりと肝に銘じて、これからの人類の生き方のなかで役に立てるようなものとしての内容を、これからお出しするというのか、そういうことが一方では必要になってくるというかですね。

 それは、我々が、なぜ、電子神殿、あるいは電子祝殿といっているそういう存在を通じて、これからの生き方を、より高度化するというのか、そういうことをさせていただくということを通じて、さらに、そのもたらす世界を喜びに満ちた、善と愛情と、また美しい人間関係、神と人の関係を掴むなかで、共に、その境地に踏み行うということを、そういうことをしていこうということでございます。そういう中で、白川の講習の教えが、皆さんの役に立って、それをさらに充実されたものとして実現するというかですね。そういうことを広く考えていくということをやっているのは、たぶん、我々しか、今の段階ではいないのではないのかなと。

 そういうことも、視野に入れて、これから、ますます神と人、人と人、人と物というような、情報すなわち神と、精神と物質という関係のなかで充実した人生を歩めるような、そういうところまで、我々の学びの前提をしっかりと踏み行うということをしたいものだということでですね。さらに、それをシステム学習に落とし込んでやっていきますよ、と、ずっと言ってきたことでございます。そういうものを含めて、皆さんと、祓い、鎮魂、言霊という、そういうところの細かい階段というか、階(きざはし)を半歩ずつ上がれるように、それを踏み行えるように、一緒にこれからやっていきたいということでございます。

 ますます、皆さんと、電子神殿を通じて、境地に持っていくことをしたいということでございます。そんなことでございますので、物質としての電子というか、それは、いよいよ46億年から47億年前の太陽系ができたときに、バラバラになって、散らばっている鉄という進化の形を瞑想しながら、鎮魂しながら歩んでいくというところもですね。

 隕鉄の鎮魂の玉も、なかなかできないところを、伊藤刀工が奇跡のように丸にしてくださいました。剣を作る人は、線を作るわけですね。ところが、丸を作ってくださいというようなお願いでしたけれども、それもしっかりと出来上がって、皆さんとさらにそういう隕鉄でですね。

 また、月火水木金土日ではないですけれども、日霊神、月霊神、水霊神、金霊神、風霊神というように、毎週違う物質の違う元素を使って、修行をするというところまで、たくさんの物質を、自らの身の中で体感するということを含めてやっていきたいということですね。レパートリーも、神の存在も、名前もたくさんできましたので、これからはますますそのあたりの、さらに、神身一体、神身一如の世界をしっかりと掴んでいくための道を、皆さんと共に歩みたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いしたいと思います。

 今日はありがとうございました。また次回を楽しみにしております。よろしくお願いいたします。

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