2021年3月5日のオンライン祝殿講習における七澤代表の講話

皆さん、こんにちは。ちょうど梅が咲いて、江戸時代の頃の都々逸(どどいつ)の話をよくしますが、梅が咲いたけれども桜はまだかいな、というような、そういう都々逸がありますけれどもね。今ですね、その途中というか何というか、桃の花というですね、そういう花もあるわけですが、両方とも、桃も梅も実がなりますけれども、桜は実が出ないというのかね。花そのものを愛でるというところに根拠がありますけれどもですね。我々も、万葉の大伴旅人の、その歌の序文で、令和という、そういう年号といいますかね、それをいただいているわけですけれども。13種の中に、梅の花が落ちる情景を天の雪というかですね。そういう表現を大伴旅人がしていたところがあるのですけれども。
今、一方では、我々は絶えず、その実利とそういう功利というのか、その持っている意味の理を両方を探る傾向がありましてですね。甲州の梅をですね、南高梅に匹敵する位の梅にしようということでですね。梅の花が天の雪というようなそういう表現を大伴旅人がしていたので、それを思い起こしてですね。今、そういう梅は、塩梅といいますか、塩の具合でいかようにも変わるといいますが、やはり、塩で、もちろん変わる部分もありますけれども。
奈良時代からの甲州の名産は、いくつかあるのですけれども。梅も柿も、今はさまざまな商品が、日本では山梨、甲斐の国は、そういう果物王国と日本の中ではいわれていますが、だんだん温暖化現象といいますか、炭素の問題に集約されて、いろいろと議論されております。本来、色がつくぶどうが、色がつかないということで困っていてですね。グリーンマンゴーというような、南方の果物とも野菜ともつかないものがありますが、それを作ろうかという開発の計画もあるように聞いております。今は、そういう様々な果物、野菜も、いろいろこの甲州から出せるのではないかということで、いろいろ、からかってというのか、からかいではないのですけれども、そういうこともいろいろテリトリーといいますか、やろうとしている仕事のなかにも、今組み入れているものがたくさんあります。実は、小麦でも、日本の種になっている、南部種という小麦粉を使って、新しい製品作りを考えて、今いろいろな商品化にしようとしてですね。今、いろいろ皆さんに喜んでいただけるものを作ろうとして、今日、登録商標を出したものもあるくらいに、今、活発に進んでおりますけれども。
どうしても花も実もあるようなですね、庭木にはあまり実になるような、庭木を植えるなというのは、欲どしいというのもおかしいのですけれども、せいぜい、かりんの木くらいで。これも食べるということではなくて、お金を私は借りませんと、かりん(借りん)と(笑)、そういう語呂合わせ、言霊みたいなところでですね、庭に植えるというようなことはあるようですけれども。花を愛でるというところでの潔さというようなものというか、情緒というのか、情動というのか、精神というのか、そういうものが喜ばれる時代というのかですね。その萌芽というか、それは万葉集の頃からも、すでにそういうようなことになっていた経緯もありますが、そんなことも、過(よぎ)ることではあるかなというふうに思っております。今、我々も、そういう歌を通じて、季節の知識から季節の情感というのか、情動というのかね。そして、また季節が動くときのそのはっきりとした、その変化といいますかね。歳時記といいますか、二十四節気といいますか、そういうもので表す、その季節の、最も変わる方向への、季節の意志というのか、歳時記で、それを表す表し方ですね。
たとえば、今日は啓蟄(けいちつ)ですよね。虫も穴からいよいよ出て活動を始めるときに当たっているということもありますけれども。ひとつの自然の、先程のそういうなかにも、梅が騙されて咲くという意味合いの歌もありましたけれども。そういう花という、あるいは、年年歳歳、花は咲いたけれども違うんだよという言い方もありますし、一方では、花というものに仮託して、人の意志を伝えるというかね。歌のなかにそういう理解の仕方も、花に託するというかですね。人の気持ちを花に託する、意志を花に託するという、そういう捉え方も一方ではあるわけですね。ですから、自然というものが、二十四の節気で、動いていくようなそういう表現をすることもですね、自然の中に、そういう一つの躍動する、そういう生命意志というものがあってですね。それがどんどん変わっていくということがあって、刻々と、時というのを変えていくというかね。我々が毎日の天気予報なんかを当てにしたり、当てにしなかったりしていますが、傘を持ったほうがいいのか、傘もしっかりとした傘にするか、簡単な日傘みたいなものにするのか、いろいろなそういう違いもあったりして、様々な人の世界、自然の世界を渡っていこうとしている。一方ではそういう世界もあるわけですけれども。
いってみれば、情動意志というものを、自然から感じて、その上で、どう生きるのかということを、また考えるというかですね。そういうことが我々のなかでは起こるわけですね。ですから、それがどういう世界なのかということで、我々の倫理的あるいは道徳的な生き方というところを、自然から学んでいるというかですね。自然の、そういう躍動していくときに感じるものから、こういうふうに生きるという生き方を決めていくということがありはしないかなということですね。この春というのは、そういう意味では、さまざまな精神といいますか、どう生きるかということを考えるきっかけになるというかね。先ほどの言い方をすれば、春になって、花も実もある人生というか。欲が多いのかもしれないしですね。そういうことをいうということは、時代時代の影響もあるのかもしれませんね。そういう支配者の意向に従って、そういう生き方というものが出て来るのかもしれませんけれどもね。少なくとも、自然から倫理、人の生き方というものを人が学んでいくというかね。そこに自然というものが持っている、五行も、神の如く人を、ある面では導いてくれたり、ある面では喜ばせてくれたり、その師になってくれるというのかですね。先生になってくれているところがありやしないかなということで、自然から学んでいくということが、いろいろできるのではないかということは言えるのではないかと思っています。
そういう学びもするということですけれども、それは自然や先祖や、あるいは、公の、そういう精神の尊んだ、そういう生き方というようなものを国津神から学ぶ内容でもあるしですね。あるいは、宇宙創造の天津神から学ぶ。神々のそういう働きというようなものを自覚するということをさせていただいているということも、また我々のなかでは、当然というかね。そういうことを、普段から、一番気にしてやっているのが、我々の白川学館の学びであると。
この全般を、今、我々は、人と物、そして、人と機械・装置、それから、人と先祖、亡くなった人ですね、あるいは、人と人。そして、人と自然というかですね、五行というかね、それから人と風というようなこと。そして、公の代表としての国津神、そして、またその創造の天津神の百神というような、そういう神々に変換されているわけですね。その中で、今我々が科学の発達によって、エネルギーというものも、神の一つの働きであるということを知るときが来て、それを我々は霊神と呼んで、日霊神、月霊神、水霊神、金霊神、そして風霊神という、そういう五霊神というふうな、そういう神に変換してというかね。あるいは、そういう捉え方をして、神を見つめるという見つめ方をさせてただいてですね。今は我々は遠津御祖神のご修行、あるいは、五行のご修行ということでの自然を学んだりしているわけですね。全体系の中での学びをつなげる役割としての五霊神というような言い方で、顕現する方向で、学びの方向を少しまた広げるというかですね。エネルギー場と神の名と、そこで働くときの働き方を含めて学んでいくというかですね。ある面では、祝殿講習の中に、そういうところが増えてきたというのかですね。
今日の、たとえば塩の神様の働きは、基本的には、土というかですね。特に、そのうちの元素といいますか、そういうものを、NaとClというような、元素の結合によってできた塩というものによって、人が命をいただいている一つの姿を学ぶというようなことをやるわけです。そういう五行も、エネルギーの端的な使い方というか、それが、即、健康のところにつながっていく、そういう道もあるということを、当然、我々が汗をかくことで、NaClを外に出していくこともあるわけですね。ですから、健康ということのために、ある面では、土といっている金霊神の元素というものの必要な、もちろん絶えず必要であるわけではない場合もありますから、それが必要なときに必要なだけ使えるような形で、我々は生命を成り立たせていただくということもあると思うんですね。不必要なときには、それを出していくということで、そういう塩ということも出てきてですね。単純にそれがいつもあればいいというふうなものではなくてですね。よりよい臓器の健康のためには無いほうがいい場合もあるということですね。それで、今は、体の中で、コロイド状の出し方ですよね。あるいは、化学反応として出していく事もあるわけですけれども。そういうことを通じて健康というものを考えるというかね。たくさんの元素というものをお出しして、そして健康になるということを考えるということなんですけれども。そういう分子的な結合で、そういう健康を保つ、あるいは、そういうことが一方ではあると同時に、これから、さらに分子の元の原子というか、そういうものを表すというのかね。
その何かということを問うていくことをすると、それぞれの原子がまた、原子で転換するというかですね。たとえば、55という原子番号のセシウムというような、放射性物質は33年で半期、そういう期間で半減期になるわけですけれども。今のまだ福島のあれも10年ですけれども、33年で半分だと、まだあるわけですね。だから、そういうセシウム、55番を、1つ違う56番の元素に変えることができればですね。それはバリウムが56番目ですから、セシウムという放射性物質を56番というバリウムに変えれば、せいぜい放射能が通過しない、反射するとかですね。そういうことで、ひとつのバリウムを飲んで検査をしますけれども、そういうことで役に立ってくれるような程度の物質に変わっていくということも考えられるわけですね。ですから、そういう原子転換をする、今の炭素の問題も、一つ違いの、炭素は元素が6番ですけれども、7番の窒素が、実は炭素になっていくんですね。一番多い物質としての、地球上にある物質、ガスとしての窒素が、炭素になるわけですから、逆の作用で炭素を窒素に変えるような原子転換法を使えば、それによって窒素を、太陽のそういう働きを待つまでもなく、転換することも可能になるということになるわけですね。
そんなこともありまして、原子転換する、その人格的な原子転換というものもあるとすれば、主に、いろいろ起こるであろう精神的な病としての人格が変わってしまうようなことも、基本的には、そういう弱点というのかね、その歪みから、人格転換するということを、あるいは、違うものの人格を使うということではなくて、よりよい働きをするための、そういう原子転換ならぬ、人格転換する方法というものが、それが、直接いってしまうとなんですが、神と人とのコミュニケーションの中で、その方法を人格転換の方法を学んでいくのが一番手っ取り早いということを思うのですけれども。そういうことも可能にする歩みを、我々もしたらどうかなということがありはしないかということです。そういう人格転換の一つの方法として、ナレッジという知識を持つこともそうですし、そして、より深い感情が、情緒、精神まで高められていくということができれば、それもまたいいですしね。より良い人生の強い生き方の意志を持って生きるということを学んでいくということが、それが今我々が祝殿講習でやっている、そういうご修行というものが、先祖と一つになって、そして、先祖の神と一つになって、そして、自然と一つになっていく。そのときにある自然の息吹きというか、強い生命意志というものを学び取っていく、そして、そのうえで、さらに人としての人格を転換していく。自然の強い意志のように転換していくということができれば、なお良いかなということがあると思うんですね。
だから、それを、白川のおみちというのが、神と人とのコミュニケーションというものを通じて、それを広げていくというかですね。その学びを広げていくということが、このご修行の中にあるというふうに捉えていただいて、さらに一緒にやっていただける、その広がりを持って行きたいなというふうに思う次第でございます。そんなことがありましてですね。そういう実もある花もあれば、実のない花というかですね、良くいわれる山吹の花なんかは、「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」という、そんな歌もありますけれどもね。そういう、一体、実があって幸せなのか、あるいは、愛でるというか、人の生き方をより高めていくというようなところに、その真骨頂というか、人としての喜びや美しさを感じるというようなですね。そういう生き方もあるんだよということを、我々は学んでいくことになろうかと思います。そういうことを共に、さらに学んでいくということがいいかなと。それで、究極の天津神を迎える、あるいは国津神、天津神を迎えて、行くことが、今一番の喜びになるというかですね、そういう世界ではないのかなということでですね。桜というふうな花を愛でるというようなことが、一方では、お米という、人にとって一番の栄養価を与える穀類の花と一緒にして、そして、それをいただきましょうというようなですね。そういう世界も、一方では、我々は学んでいるということが、花から来る、そういう学んでいる意志もあろうかというふうなこともありましてですね。これから、さらに、皆さんと歩みを進めていきたいというふうに思っておりましてですね。
ちょうど、いよいよ春で、コロナの問題もありますが、また新しい年を迎えるということが、皆さんにとって、より良い春の芽吹きといいますか、萌えいづる、そういう季節に心が踊ってですね。その自然と、そして、人々と、そしてまた神々とともにある人生を、花も実もある人生として受け止めていく、そういう生き方にしていくことが、我々にとって、これからの人生をより豊かにしていく秘訣なるのではないのかなということですね。そのへんを皆さんと学んでいくということを、この春のご修行からしたいなというふうに思っております。そんなことで、中国でいうと、春節から、新しい年になるといいますけれどもですね。我々も新しい年になったという思いで、自然を迎えていくことができればよきかなということを感じております。そんなことで。またの機会にお会いしたいと存じます。
今日は皆さま方、ありがとうございました。