2020年12月2日の祝殿講習における七沢代表の講話

皆さん、こんにちは。ご苦労さまでございます。ありがとうございました。こうやって皆さんと話している場合、今日は、「窓」というシステムを通じて、1人対45人ぐらいのコミュニケーションが起こっているというか。仮にもし、何か目に見えない存在がこの話を聞いているとすると、盗聴以外はね(笑)、なんかそういう霊のようなものが聞いているとすると、それこそ大量な関係かもしれませんけれどもですね。言ってみれば、一対多という、そういうコミュニケーションをしているといってもいいと思うんですね。そのときに、人と神というかですね、一体どういう一対多なのか、一対一なのか、どういう関係でコミュニケーションが行われているのかというようなこともついつい考えちゃうというかですね。ですから、一系統の一人の心と私の心と話しているというようなこともあり得るし、あるいは、皆さんの一部であるかもしれない皆さんの先祖と、なにかコミュニケーションしている場合もあるかもしれないというかですね。あるいは、皆さんの、たとえば、夫や妻に当たる人や、あるいは子どもさん達とも、生きたそういう人たちと私が、実は会話しているかもしれないというかですね。そういうテレパシーというか、そういうものの概念を入れると、さらに広がっていくというかね。
一体、人というものはこれから、特に白川というものが神と人とのコミュニケーション・プラットフォームを今までやってきたし、作ろうとしてきたし、これからもさらにそれを深めようとするというようなことがあるとすると、様々な関連性というかね、難しい部分というか。今まで、人類が考えたようで考えていない、あるいは、散々考えてきたのに今はそういうことをしないのかどうなのかということも含めた、戸惑いというようなものも、あるのかもしれないんですね。一体それは何なんだというか。それを一人称、二人称、三人称とか、もう一対多というふうな、そういう関係性の中に入ってしまうとですね、もう際限なく分からない世界に突入するような、そういうことが起こっている。実際、私がこの4年間くらい対面として皆さま方に話してきた内容というのは、500万語以上の語彙としてはあるわけですね。そういうものが皆さんと前にして、せいぜい祝殿がいっぱいになっても、50人か60人くらいですから、そういう関係の中でお話したことが多くあるわけですね。その時その時に、さきほど言いましたように、皆さん一人ひとりとも関わるし、また、皆さんの先祖とも関わるし、皆さま方が主な、指導原理にしている、そういう存在とも関わっているというかですね。そういうところにコミュニケーションの言葉が行って、それが会話しているというふうなことにもなるわけですね。
ですから、時々迷ってしまうというかですね、私は自分で話しながら、あ、これはあの人の主に今の悩みのことなんだなとか、これはその先祖の悲しみなんだろうとかね。その思いが、多岐に渡って広がるというか、感じちゃって、そのことで皆さん方はすべて消えて、そういう存在と自分とが向かい合っていくような、そういう場面に、幻影というか悩まされることもあるわけですね。それでこういうデジタル方式というようなことに変えたときに、少しそれがやわらいだと思ったんですけども。それはある面では、今度は一対多という形で、皆さんの中のN乗の1+NNというかですね。自己自身、皆さま方の中のまた別の人格としてのそういう存在との関わり合いというかですね。そういうことを数式的にいうと、そういうものが出てくるということになって、非常にお話していても、実に難しいことになってしまうというかですね。そういうことを4年間、5年間で体験して、今、こういう「窓」というような、Zoomなんかもそうですけども、そういう関係がね。新しい人類のコミュニケーションの段階が、デジタルというそういう方式が取り入れられることによって、様々な関係性というものを自覚せざるを得ないような、そういうときに一方では来ているというかですね。
スーパーでの買い物も、あるいは、今のビジネスというようなものの展開も、ポイント・オブ・セールスとかね。そういうデジタルになったときに、対面販売が、ポイント・オブ・ビジネスというか、より抽象的になったりして、その方法論が、関係論が機械の中に落とし込まれるというようなことが起こっていて、皆さんはそれを一番頑なにアナログというところの、対面のところは大切にされている皆さんであろうと思います。けれども、今の社会は、いよいよデジタル庁まで、一気に、デジタルが省庁になっていくような時で、その中でも日本は進化が遅いというふうに言われているくらいの段階にきている。
使い勝手がまだ十分ではないというふうなところの中で、この神と人、あるいはその世界をアナログ的に「神をこの手で掴む」とか、「神を食うてみよ」というふうな、そういう五感の中でしっかりと受け止めようということを、生きる一つの大きなテーマとして一緒にやっていただいているという、そういう現状があろうかと思いますけれどもですね。できるだけデジタル的なものも利用しようということで、システム学習というような学習というものの方法論を取り入れて、少しでも進化させるというか、人類として、あるいは人として意識進化をする。より神に近づくというか、神人一如というか、そういう世界に行こうという、そういう野心というのか、それが人類が一旦それを止めてしまったのか、あるいはこれから、さらにやらなきゃいけないというか、やらないと滅びてしまうというような、そういうことにも繋がりかねない状況が、今のこの世界の中に起こっているというかですね。そういう時代を迎えてしまったということの、幸か不幸かはありますけども、その中で、この白川という神拝作法というか、そういう神に対する態度というものを掴むことによって、人が神と出会う、あるいはより親しい関係性を結べるという、そういうことを、少なくともこの身を持ってやろうということでありますからですね。それは、いかにこのデジタルの方法が進もうとも、それはある面ではフェイクというか、そういうものに違いないわけですね。
ですから、真実というものを、神の真実というものを、我々は知りたい、あるいは、その世界を掴みたいということでやらしていただいているこの講習というかですね。祝殿の学びというものを大切にしているということの表現というか、この場を共有するということを、デジタルであろうがなかろうか、しているということなんですね。それは今、ツイッターもやる、それから「はふりめく」もお出ししながら、そしてインスタグラムまで出したり、あるいは他でも「チャイルド・アーツ・アカデミー」とか、様々な、「終の住処」とかありますけれどもですね。この祝殿講習というものでは、どうしてもこれを止めるわけにはいかないといったら失礼ですけども、デジタルなその手法を通じて、徹底的に、「神をこの手で掴もう」というその意志に対して、それは皆さま方と共にやっていくんだという、そういう決意の現れであるわけですね。だから、チャンネルを4つも5つも持っているんですけれども、この祝殿講習というものについては、しっかりとそれを前提にした、その表現をなるべくしていきたいというか。それが、こんなようなあまりにも抽象的なことばっかりいっていても、本当はいけないところもあるんですけれども。
こういう中で、より客観視をすることによって、皆さま方にさらにお伝えするべきことが、効果的なもの、アナログ的に効果的になる、「神をこの手で掴む」ということに繋がる客観視がさらに進めば、これは非常に結果良しとして出来上がるというかですね。今回も、何百年も前の出版というか、技術というようなものがパブリッシュとして、皆さんの共有知識として、それをお出しするというかね。それが、百科全書や印刷というふうな技術によって、それが可能になった時代の、それを我々は本というか、お出ししたりしていくというようなことが、色々手を変え品を変え、先読みでもってお出しする、その知識を先に知ってもらおうというような、たくさんの人に知ってもらうために、そんなことまであるわけですけども。
そういうことも通じて、今、我々の「祓い・鎮魂・言霊」というような基本のところを、その知識を獲得してもらうための、読んでいただくというか、そういう本もいろんな形でもって、和器出版だけでなくて、出しているわけですね。それは、機会というか、たくさんの人に、マスメディアとして、そういうことを知っていただこうということで、させていただいているわけですけれども。そのことが、人類が本当に家族で、ネアンデルタール人もあるいは何万年か前の洞窟に住んでいた人たちも、それをありありと感じられるような、そういう場面というものを、今の流行りの、この20年ぐらいの中で起こっている動画というか、そういうものの原型のような影絵のようなものとかね、洞窟に書かれた絵が動くような、そういうものになっていったというふうなことも、最近の研究では言われているわけですけれども。
それを視野に入れたときに、人類というものが、True of Realityというのか、真実を掴みたいということで、あるいは、それを実現したいということでの、そういう一つひとつの技を高度化する歴史であったとすると、今、起こっている様々なメディアとか、そういうものを駆使して高度化する、あるいは、その中心にある宇宙創造の神の働きを、人間が役立たせていただけるというところに来るということをやっていくというかですね。そういう道としての生き方を共にしようということが、祝殿講習の一つの目的、目標になっているわけです。それをやめるわけにはいかないというかですね。
ご修行と祓いというような、大きな目的をもってやらせていただいているということで、ある時期は、そういうことも言われた時代もありましたけれども。それを何回も確認するようですけれども、祝殿講習というものの持っている普遍的なというか、変わらざる使命、役割、目的であるということを、しっかりと確認してやっていこうということが、おみちというものの持っている一つの普遍的な生き方というかですね。そういう我々の生きるスタンス、態度を、明確に表明しながらやる生き方をしていただきたい、あるいは、確認していただきたいということがあるわけですね。
そういう中で、まずは、一つのここから大事なところです、なんて、散々、話をしていていまさら何だとなりかねないのですけれども(笑)、要するに、五行の水というような、人にとっての物質としての6割、赤ちゃんだったら8割を水として共有し、身につけながら生きているということをやらせていただいているわけですね。そういう水という一番近いであろうところのことを、自分の中で一体になりながら、生きているということの最初の取り組みというかね。それが、神といえば、五行の中の水の神ということを表明している。その水という存在も神であるというかね。ある面では、一体であるし、既にそういうミネラルや、様々なホルモンや酵素やそういうものが中を駆け巡っているわけですね。血液あるいは体液として循環しながら、それぞれの速さがあります。これは当然、光もプラズマも同時に人間の中を走りながら存在している。
その中の一番馴染みやすい水というものを自覚するということ。それが、水を観想する、瞑想するということを通じて、水という神の世界を知っていこうということが目的にあるわけですね。そういうことを一つひとつこなしていく、あるいは、自分が水と一体といってもいいし、分けて考えてもいいことではありますけれども。少なくとも、そういう存在が水という、外にあると、それは命を失ってしまうかもしれないという、そういう兵器にも水にもですね。まだ水を燃やしてエネルギーにして見せていないから分からないところもありますけれども、水もエネルギーになったり、一番のその水素と酸素ではないですが、そういうものが燃えたときには、大変なことになるわけでしょ。そういう存在としての物質でもあるもの、あるいは、エネルギーでもあるものが、水という情報が、一つの神という情報に繋がっているものとして、それがうごめいているということを、情報として、あるいは、神として受け止めていくということで、物質として、あるいはエネルギーとして受け止めるということを、どこまで自己の身として感じられるかということですね。
ある面では、人が生きるとき、水が無いと4日間くらいでもって死にそうになります。止めてみると分かります。それくらい、水というものは大切な存在であるということは自覚したほうがいい。水というものは神的存在ということを、五行としていうわけですね。水を与えないということは、飢えるというか、乾くということ。食物は飢える、水は乾くというのかね。乾いてしまったら、それで水を飲まないといけないというかね。水分がなくなると、声が出なくなります。それは余計な話しかもしれませんけれども(笑)、そういうことが起こるということですね。ですから、命というか、そういうものを制するということも可能なんだと。だから餓鬼には、食物と水を差し上げるというのは、そういうことが供養としてあるということに繋がってくるわけですね。それは一つの倫理のような存在にもなってくるというかですね。五行というものが、そういう別の人間の生きる実践倫理という捉え方にもなるわけですけれども。
そういうものを重ねていって、国津神、天津神という世界を体感していくということが、白川の神の追求の部分であるということですね。そういう精緻な階層性というのか、階段があって、その階(きざはし)というか、そういうものを昇っていくことを行っているんだということは、どうしても、この時代でも、忘れないで学んでいただきたいということがあるわけですね。それを世界に向けて、全体系として持っているシステム学習法としても、科学としても言われる内容として、我々は、今、お出し出来るところまで進んできたということですね。いよいよ12月で、こういうコロナの、一方で脅迫のような存在がありますけれども、来年のやるべきことを、今、一生懸命、鬼に笑われそうになりながら、作っているということは、我々は非力でありますけれども、必ずやり遂げる内容として、皆様と共にお出ししたいというかね。しっかりと神を掴めるような、そういうところまで祝殿講習を高度化し、高めて、みんなと共有していく社会を創りたいということで、それを目的としてやっていこうということですね。一つ一つの掴みどころを、皆さんが、沢山の人が、それを掴んだ一つひとつが、これから役に立ってくるときが来ているんだということは、これからお出しする、そういう出版や動画やインスタグラムやTwitterで、さらに場を広げて、たくさんの世界に通用するような、そういうことをしたいということでですね。
皆さんの毎回毎回、この本当に狭いところに、集まっていただいてやれているということの永続性というか、そのことに対して、非常に有り難いというのか、感謝をもっている、そういう思いは、並々ならぬものがあると思います。さらに、それを高度化していくことをさせていただきたいというかね。今日はちょっと抽象的なことを言って申し訳ないところもありますけれども。神の一端を掴んだというときの、その感動や、あるいはその体感が広がることが、この白川のおみち、祝殿講習の元とするところであると思います。これからも、ぜひとも、その一つひとつを皆さんと体験していくためにも、この祝殿講習においでいただきたいと思っています。
今日は、本当にありがとうございました。